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春だからメメントモリ… 

2008, 03. 26 (Wed) 14:08

うっすらと雲のかかっているお天気のG県です。暑くもなく寒くもなく、そして良くもなく悪くもない。そんな生きてるんだか死んでるんだか分らない状態のわたくし月夜ノ蝙蝠丸でございます。

さて、先日のことです。
20年近く愛読している雑誌 『ほんとにあった怖い話』 (朝日出版社発行) を熟読していましたら、こんな一節が書いてありました。

『忌み事は三年続く…』

作中でこの言葉を言った人は、身内で不幸が続いたという話をしているところでした。どうやら不幸は三年続くという意味なのかと思います。

忌み事 … 私にも思い当たる節がありました。
それは、何か意味があっての出来事ではないにもかかわらず、時として 「何か意味があるのではないか 」 と思わずにはいられない気持ちにさせるのです。
今日はその話をしてみたいと思います。


さかのぼること4年前。

2004年 2月
私は娘を妊娠中で、臨月でした。
はちきれそうなおなかを抱えていた私は、お世話になった方の訃報を聞いたのです。その方は私の姉のお姑さんで、私はこの方に随分と可愛がってもらいました。
ご病気で入院していたのですが、私が 「もうすぐ子供の顔を見せられる」 と思っていた矢先に亡くなってしまったのです。…私はぜひともお通夜だけでもと思い、洋服のお腹に当たる部分に鏡を入れ(妊婦はそうやって式に参列するらしいです)姉のお姑さんに最後のお別れを言いました。

そして残念な気持ちを残しながらも、その半月後に私は娘を出産いたしました。
元気な赤ん坊で、私は初めての育児にかかりきりになります。

娘が生後2か月になった時…私はやっと、自分の実家に娘を連れていきました。
当時、両親は年寄り二人だけで暮らし、買い出しや掃除などのこまごましたことは私たち5人の子供が世話に行く生活を送っていました。
両親も70歳を過ぎ、体の効かなくなっている不自由な生活でしたが、私たちが行くと喜んでくれました。

ゴールデンウィーク半ばくらいの日…
初めて、生まれた娘を両親に見せました。
父は 「良かったなあ、良かったなあ…」 と言ってくれました。私は結婚後、しばらく子供ができなかったので父は心配していたようです。ようやく子供ができたのでホッとした顔をしていました。
私は父に、娘を抱かせようかと思いましたが…父のヨボヨボした手では娘を落としてしまうのではと心配になって、結局触らせることさえしないで帰ってしまいました。
まあ、また機会はあるさ、と思いまして…

その5日後。

朝早い時間、私は電話で起こされました。

前夜2時頃、実家が火事で全焼し、父が逃げ遅れて亡くなったという報せです。

2004年 5月 実家の父、死亡。

火事でお身内を亡くされた方ならよくご存じかと思いますが、高温で焼かれた遺骸は生前の面影などすべて焼きつくし、身元の特定さえ困難になります。
歯形の照合で身元確認するのですが、父の場合は総入れ歯だったので確認が取れず、司法解剖されてようやく父であるという確認が取れました。
通夜の時に、ようやく父の遺骸は病院から帰ってきましたが、全身をすっぽりと布に覆われた姿で棺桶に入っていました。遺骸は筋肉の収縮で両手と両足を折り曲げた形で固まっていますので、棺桶のふたすら閉められないで横たわっています。
亡くなってからも、対面すらできないまま私は父と別れました。
首も座っていない娘を抱っこしながら、通夜と葬式に出席する私…実家が全焼したのでさまざまな手続きに追われ、そしてこれから約一年にわたって生き残った母の相手と、育児、そして噴出した遺産相続の争いや兄弟間のいがみ合い、家庭不和など、さまざまな問題が起こるのですが…それはまた別の機会に書きたいと思います。


同月下旬。

世帯主さまの叔母さんに当たる方(義理の叔母さん)が突然に亡くなり、クリーニングから戻ってきたばかりの喪服を着て世帯主さまは出かけました。私は直接お会いしたことはなく、しかも子供が小さいので出席しなくてもいいと言われたので…
叔母さんの死因などはよく知らされていませんが、突然死ということで親戚中が複雑な顔をしていたとききました…



お葬式は後が長いと言います。
お通夜とお葬式が終わると初七日があり、四十九日があり、新盆や新彼岸があります。私は乳飲み子を抱えながら儀式に参列しました。実父の月命日もお墓に通い、お掃除をしてお線香を上げます。
そして、手を合わせながら、
「子供を抱かせてあげなくてごめんね」
と、胸の中で呟くのです。



秋になり、家庭争議の真っ最中のある日。
2004年 10月。

信州N野の伯父さんが亡くなりました。
私にしてみると、義理の叔父(実父の妹である叔母の旦那さん)に当たります。
娘は生後7か月…私は迷いましたが、高速道路を片道3時間半かけて葬儀に出席しました。娘を連れて、初めての遠場です。
娘は具合が悪くなることもなく、往復7時間も車に揺られていましたが機嫌が良かったのが救いでした。



兄弟間のぎくしゃくが収まらないまま年を越し、
2005年 3月。
姉のお舅さん…2004年 2月に亡くなったお姑さんの旦那さんです。この方も私はとても良くしてもらいました。
ご病気で入院していたのですが、最後は家族にみとられて亡くなったそうです。



この辺りまで、私は書いていた育児日記に記録していた日付を書き出しましたが、家庭不和と遺産相続関係の話を書き続けることが嫌になって、日記を書くのをやめてしまっていました。
以降、日付はうろ覚えではっきりしませんがご容赦ください。



同年 (2005年) お盆の直前あたり。
世帯主さまのお婆ちゃん(父方)が亡くなりました。
養老院に入っていた方でしたが、容体が悪くなって入院していたそうです。


お婆ちゃんの四十九日の前日。
世帯主さまのお爺ちゃん(母方)が亡くなりました。
ご家族にとってはやるせない思いでいっぱいになる亡くなり方です。お葬式は静かに執り行われました。


翌年 2006年 春。
私の叔母さん(実父の兄嫁)が病院で亡くなりました。施設に入所していたところ、風邪をひいて肺炎を起こし、病院にて息を引き取ったそうです。


2006年 秋
世帯主さまのお婆ちゃん(母方)、肺の病気で亡くなりました。
前年に亡くなったお爺ちゃんの奥さまです。
世帯主さまの生家は二年連続でご不幸があったことになります。


そして、地理的に遠い親戚も亡くなりました。
S県S市の伯母(実母の妹)。
T県の叔父(実母の兄)。
葬儀には参列しませんでしたが、遠くで密かに手を合わせました。


去年 2007年 12月。
信州N県の伯母が病気で亡くなりました。
最後まであきらめず、弱音を吐かないで頑張り抜き、息を引き取りました。
葬儀のとき、信州は紅葉の残る、しっとりと落ち着いた雰囲気で満たされていました…



忌み事は三年続く… その言葉に、私はただ頷きます。
三年を越え、体の具合の悪い親戚もいますが、なんとか大丈夫だという話を聞きます。私はもう不幸が三年で打ち止めになったのだと思いたい気持ちでいっぱいです。
世代交代。その時期だったのかもしれませんし、たまたま亡くなる時期が重なっただけなのかもしれません。
疎遠になっている親戚と、毎月のように喪服姿で会う…それは異常でありましたが、決して不快なものではありませんでした。悲しみが底のほうに淀んでいましたが、どこかあっけらかんとした明るさもあったのです。

親戚の人たちは、娘を抱っこした私に会うたび、
「ああ、大きくなったねえ … 菊男さん(私の父。仮名)が楽しみにしてたんだよ
と私の心にチクリとトゲを刺していきます。
私は毎回のように、
「やっぱりあの時、抱かせてあげればよかったなあ…」
と思うのです。
私は正直言って、両親とはかかわり合いの薄い育ち方をしてきました。
だからこそ、父には私の子供を抱かせなかったのが悔やまれます。いつまでも生きていると思っていました。あの時は…


人は死んだら…魂は残るのでしょうか。
死後の世界があり、残してきた家族を見守ってくれるのでしょうか。そして、愚かな生者たちを許してくれるのでしょうか。

私はぜひ、そうであってほしいと思います。




長々と書きましたが、解りづらい文章で申し訳ありません。
今日はシリアスに決めてみました。
最後まで読んでくださってありがとうございます。

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